ことのはの杜

気になった言葉、フレーズ、表現、描写、レトリック、言葉遊び、言の葉にまつわる思い入れやエピソードなど、諸々の考察と備忘録

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 女性が「とつぐ」と言えば結婚相手の男性の家に入ることを意味するので、それを表す漢字も、ただ素直に女偏の家で「嫁ぐ」と書けばいいのですよね。うん、実に簡単。覚えやすい。

 それは良いとして、逆に「嫁」の読み方である「よめ」のことになると、それまで穏やかだった空気が急にざわつき始めるような気がしてしまうのは何故なんでしょ。

 元々、「嫁」には「とつぐ」という言葉が充てられているように、その根源的な意味は「息子の妻として家に迎えられる女性」の意味しかなかった。

 だけど、最近はそういう意味ですら使わない人たちが巷に増えてしまっているので、きっとそれが原因なのかも。

 「俺の嫁」と言えば、お気に入りのアニメの「推しキャラ」だったり、人によっては目に入れても痛くないほど愛おしい二次元の美少女キャラのことだったりする。

 だけど、いちいちそんなことで言葉遣いの誤りを指摘していたら、その界隈から空気嫁(空気読め)とお叱りの言葉が飛んできますよね。

 こういうネットスラングのように、ある特定の文脈で使われるような表現は愛嬌のある表現として受け入れても別にいいとは思います。

 むしろ「三次元の女性と結婚しなくても人生が満ち足りるくらい余りある価値」と定義して、リアルの女性に興味を向けられなくなった男性たちの拠り所にもなり得る新しい「嫁」のカテゴリがあってもいいくらい。

 ただ、一般的に社会人としての教養を求められるような改まった場面で、誰かに対して自分の家族間の関係を説明するときくらいは齟齬が生まれないような配慮があって然るべきだと思うのです。

 たとえば、自分の妻のことを指して言うときに軽々しく「嫁」という言葉を使わないとか。「嫁さん」や「嫁はん」という呼び方についても同じ。 

 もし私が何かの手続きに応じる役所の職員だったとしたら、窓口に見えた市民の方が「うちの嫁さんがですね」などと言ったら、その方のご子息の妻のことだと解釈してしまう。

 普通は家族間の続柄を誰かに説明するときに、男性だったら自分の配偶者を「嫁」ではなく「妻」と言いますし、女性だったら自分の配偶者を「婿」ではなく「夫」と言うでしょう。

 何の前置きもなく、ただ「嫁」と言ったりすると、家に嫁いできた「息子の妻」か「息子の妻となる相手の女性」のことを意味するので、なんとなく聞き流していると「妻」という意味では伝わってこないものなんです。

 そもそもの話、どうして妻のことを嫁という人が増えたんでしょうね。

 一説によると、どうやらテレビのバラエティ番組に出演する関西系の芸人たちの言動が強く影響していると言われているみたい。

 言葉の誤用を巡っては教養の低いテレビタレントの害悪説が度々顔をのぞかせてくるのですが、その話はとりあえず、脇に置いておきましょう。

 さて、それじゃ関西では実際のところ妻のことを嫁というの?夫のことは婿というの?

 私は、数少ない関西人の知り合いに「男性が自分の配偶者のことを指す言葉」と「女性が自分の配偶者を指す言葉」を尋ねてみたことがあります。

 そしたら、それぞれについて「妻」と「夫」と、至極真っ当な答えが返ってきたので余計にアレレ?となってしまいました。

 「そんなはずない!嫁とか婿とかいう言葉は使わないの?」と食い下がったら、たしかに日常会話では「妻」の意味で「嫁」は使われるそうで。

 ただ、「夫」のことを「婿」という人は今まで見たことがないとも言っていました。「婿」はまだまだ「娘の夫として迎えられる男性」という意味が支配的?

 ひょっとして、「嫁」という言葉の使われ方にだけ地域差みたいなものがあるのでしょうか。もしあるとすれば、そういう地域的な慣習までも誤用と決めつけるわけにはいかなくなります。

 そうは言っても、やっぱり本来の根源的な意味を軽視して、まるでファッションのようなノリで軽々しく「妻」を「嫁」などと表現するのは言葉に対して真摯な態度とは言えません。

 あまりに言葉に対して無頓着すぎると、その言葉に引き継がれてきた文化的な背景までもが時の流行りに上書きされて歪んでいくことにもなりかねないですからね。そこは自戒を込めて気をつけたいと思います。

 ついでに、関西の言葉にゆかりのない人が明らかに自分の妻のことを指して言っていると分かるときは「お見かけによらず、もうご結婚されているご子息がいたなんて」と意地悪を言ってしまうかもしれませんが、そこはどうか御愛嬌ということでお目溢しを。

 さて、今回の「よめ(嫁)」を最後まで読んでくださった方は、このテーマや私の考えについて色々と思うところがあったかもしれません。

 でも、みんな優しい人たちばかりだから、きっと私が求めていなくても手取り足取り懇切丁寧に教えて・・・もとい、ツッコんでくれますよね。知らんけど。(使い方)

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 未だに、どうしても馴染めない言葉のひとつに「見える化」という表現があります。

 その昔、この言葉を初めて耳にしたときは、たまたま話者が「可視化」という言葉をど忘れしてしまったか何かで、とっさに「見える化」という言葉をひねり出して取り繕う間もなく口走ったのだろうと勝手に思い込んでいました。

 その時は相手の語彙力不足を気の毒に思いつつ、失笑を堪えるために私の表情筋がそわつき始めているところを、どうにか相手に悟られないようにと必死だった気がします。


 どうしてかって、「見える化」と聞くとなんとなく幼稚で無教養な響きをまとっているので、当時私の感性では、むしろ口にした恥ずかしさのあまりテヘペロ(ノ≧ڡ≦)の類ではないかと思っていたほどだからです。


 それなのに、何も気に留める様子もなく平然と流れるように話し続ける相手の様子がたまらなく滑稽に感じてしまって、とにかく失礼のないようにと心の動揺に抗いながら真剣に聞いているフリをしていたのですけど、結局「見える化」より後の話は何も頭に入ってこなかったという有り様でした。

 今では新聞媒体でも専門業界紙でも普通に使われる言葉として完全に市民権を得ている「見える化」ですが、そもそもの出処はドコなのでしょう?

 ウィキペディア(フリー百科事典)によると、出自は1998年と古く、トヨタ自動車の業務改善活動の一環で登場したらしいことが記されています。

 Visual Control という、れっきとした英訳もあるようで、可視化を表す Visualization とは区別されているようです。

 一般的には問題や課題を認識するために用いられる言葉だと説明されていますが、ただ実際の使われ方を見ている限り、シンプルに「可視化」と表現した方が収まりの良いところにまで使われていて、どこまで筆者や話者が意識的に使っている言葉なのか、という疑問は残ります。

 「見える化」に限ったことではないですが、こと日本の製造業においては海外からも一目置かれる優れた生産管理や品質管理の手法があって、自動車産業であればトヨタのカンバン方式、エレクトロニクス産業であればNECのTQC(Total Quality Control)のように、生産や経済活動に関わる言葉の原義が企業活動の現場に由来するということは珍しくありません。

 そうした言葉の由来や使われ方の背景がしっかりと認知されて、正しく共有されるのであれば一向に構わないのですが、もし無頓着に雰囲気だけで使ってしまっているのだとしたら、やっぱり望ましいことではありません。

 「見える化」という表現は、まさに字面からも説明が要らないくらい分かりやすいと思いますし、言葉の響きさえ気にしなければ、むしろ「可視化」というよりも直感的に伝わると思います。

 でも、その陰で本来ピッタリの意味で使われていいはずの言葉がだんだん使われなくなっていくというのも忍びなくて、個人的には仕事関係のプレゼンでもほとんど「見える化」という言葉を使うことはありません。

 日本語には、使う場面で据わりの良い表現というのが他にもたくさんあって、その気になれば「可視化」だって透明化、明瞭化、具体化、表出化、表面化、顕在化というように、いくらでも状況に合わせた言葉選びができます。

 「見える化」は表現としては便利だけれども、いくつも言い換えられるほどザックリした言葉だから、より丁寧な説明を心がけたいところでは、なるべく使うのを避けた方が良い言葉だと思っています。

 だからと言って「見える化」を世に送り出した生みの親であるトヨタ自動車さんを茶化したり貶んだりする意図は毛頭ありません。

 どちらかと言えば、「見える化」の原義となった企業の業務改善活動に敬意を示すためにも、その言葉の趣旨に適ったふさわしい使い方をすべきかなと、強く思うのです。

 「見える化」という言葉に未だ馴染めないでいるのは多分、その言葉の持つ響きだけが理由ではなくて、そもそもの原義から離れて「可視化」の代わりに使える便利な言葉として独り歩きしてしまっているような印象があるから、かもしれません。

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 もし、救急病院の入院病棟近くで「あっさりしんじめぇ~」などと大声を張り上げていたら袋叩きにされそうですが、実は古くから色々な地域で親子代々語り継がれる言葉遊びの逸話として知られているもののひとつです。

 言葉の響きがいかにも不穏な空気をまとっているのですが、種明かしをすると貝の「アサリとシジミ」が訛ったものだとされています。

 これは昔、アサリとシジミを売り歩く行商人がいて「アサリ~シジミ~」というように、客を呼び集めるために道端から垣根越しの家まで聞こえるように発した大声が、あたかも「あっさりしんじめぇ~」(あっさり死んじまえ)のように聞こえた、というものです。

 ただ、この話には懐疑的なところがあります。

 私は幼い頃に母からこの話を聞かされたのですが、その母も祖父(私からは曽祖父=ひいおじいちゃん)から聞いたそうなので、実際にそういう行商人が「いた」という話なのか、それとも誰かの創作なのかハッキリしません。

 本当にいたとしたら、移動手段は何だったのでしょうか。

 曽祖父の時代背景を考えると自動車や自転車ではなさそうです。ならば大八車だったのか、それとも背中に背負って歩いたのでしょうか。

 母が生まれ育った地は茨城県の東西に延びる国道50号線沿いの山間なので、もしその土地に伝わる話だとしたら行商人は何時間もかけて、当時は舗装されていない山道をひた歩いて移動していたことになります。

 それに、売り物は本当にアサリとシジミだったのでしょうか。

 茨城県にはシジミの産地である涸沼がありますが、アサリは残念ながら捕れません。

 隣接する産地で比較的近くの市場まで買い出しに行くとなると東京都か千葉県しかありません。

 ということは、東京や千葉から茨城県にアサリを売りに行く行商人がいたということでしょうか。

 昔は茨城県の農家の女性が野菜などを売るために常磐線を利用して東京に来ていたという話を聞いたことがあります。

 常磐線の主要な駅には行商台という腰掛けに似た荷物台が設置されていて、行商人たちが電車の待ち時間に背負籠や手荷物をその台の上に置いて身体を休めているという風景が当たり前に見られたそうです。

 ならば、東京から茨城県の方にアサリを売りに行く行商人がいたとしてもおかしくはないかもしれません。

 母が育った地に一番近い友部駅が開業したのは明治28年なので、そう考えると確かに曽祖父が存命中の時代の話としては「あり得る話かも」なんて考えもしました。

 でも、当時始発駅の日暮里から100キロメートル近くの遠路を鈍行列車(各駅停車)で往復4時間もかかり、さらに友部駅から国道50号線に向かって歩くとなると片道だけで丸一日かかるので、とても商売どころではなくなります。

 やっぱり、この逸話はその土地で独自に生まれたものではなく、誰かの創作が人づてにやってきて曽祖父の耳目に触れることになったのだろう、という気がします。

 他にもよく聞かされた言葉としては、外国語のような響きのある言葉がたくさんありました。

 たとえば、ハッキトール、ハットナクトフール、オストアーンデル、ヒネルトジャーなど。

 ちなみに、ハッキトールは「掃き、取る」なので箒(ホウキ)と塵取りのこと。ハットナクトフールは「鳩(が)鳴くと(明日は雨が)降る」のこと。オストアーンデルは「押すと餡(あんこが)出る」ので饅頭(まんじゅう)のこと。ヒネルトジャーは「ひねるとジャー(と水が出る)」なので水道の蛇口のこと。

 でもどうして。

 水道は東京都ですら昭和30年代になるまで敷設されていなかったのに、曽祖父が晩年を迎える頃もまだ井戸と手押しポンプしかなかった茨城県の片田舎で「ひねる」という蛇口の発想があったのか、とても不思議。

 多分これらの言葉遊びは曽祖父の創作ではなく、どこかで生まれた当時の流行り言葉が水道の敷設より急速に全国へ伝播していったものなのでしょう。

 そう考えると、単なる言葉遊びの中にも昔の人々がどんなものに興味や関心を持って暮らしていたのか、ちょっとだけ垣間見ることができたような気がします。

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